「失敗が怖い」。そう言葉にした瞬間、多くのアスリートが心の奥に押し込めていた感情が静かに浮かび上がってきます。大事な場面でのミス、期待に応えられなかった試合、SNSや世間からの評価──現代のスポーツ界では、身体的な能力だけでなく、心の在り方もまた厳しく問われる時代になっています。こうした状況において近年注目されているのが「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)」という心理的アプローチです。これは従来の「ネガティブな思考を打ち消す」や「ポジティブになろう」といった方法とはまったく異なり、失敗や不安を抱えたままでも価値ある行動を選び続けることを支援する、新しいスタイルの心理療法です。
ACTは1990年代にスティーブン・C・ヘイズらによって提唱された、第3世代の認知行動療法の一つです。特徴的なのは、「思考や感情を変えようとしない」ことです。むしろ、そうした内的な体験を受け入れながら、それでも自分が本当に大切にしたいことに向かって行動することが、ACTの核心となります。例えば、「またミスをするかもしれない」という考えが浮かんできたとしても、それを無理に打ち消すのではなく、「そう思っている自分が今ここにいる」という感覚で捉えるようにします。そして、その思考や感情を背負ったままでも、自分の価値に沿った行動を選んでいくことが目指されます。
このようなACTのアプローチはスポーツ現場でも高く評価されており、多くのエビデンスによってその有効性が裏付けられています。たとえばGardnerとMoore(2007)の研究では、ACTを取り入れた選手たちが試合中により高い集中力を維持し、不安を感じながらでもパフォーマンスを落とさずにプレーできるようになったと報告されています。これはACTによって「注意の向け方」が変わるためだと考えられています。つまり、自分の不安やネガティブな思考ではなく、「今、この瞬間に何をすべきか」へ意識を戻す訓練を行うのです。結果として、不安があるにもかかわらず、行動の質はむしろ向上するという心理的柔軟性が身についていきます。
ACTの中心にある「心理的柔軟性」という考え方は、ストレスやプレッシャーに直面したときでも、自分の価値観に基づいた行動を選択し続ける力を意味します。たとえば「チームのために全力を尽くしたい」という価値観を持つ選手であれば、「失敗したらどうしよう」と思いながらでも、試合に挑むという選択が可能になります。このように、ACTは「不安を感じてはいけない」というプレッシャーから選手を解放し、「不安を感じながらでも進んでいく」姿勢を養っていくのです。
またACTはゾーンやフロー状態といった、競技における極度の集中状態とも深く関わっています。ゾーンとは自我意識が希薄になり、まるで動きと一体化するような感覚のことを指しますが、その鍵は「感情の排除」ではなく、「感情の受容」にあるとも言われています。ACTはまさにその入口となり、不安や緊張があるからこそ集中できるというパラドックス的なメカニズムを支えています。
ACTの実践においてはマインドフルネス(今ここへの注意)、価値の明確化、そしてコミットメント(行動の決断)という三本柱が重要です。マインドフルネスによって、ネガティブな感情や思考にとらわれることなく、競技中の「今この瞬間」に意識を集中させます。価値の明確化では、「自分はなぜこの競技を続けているのか」「どんなアスリートでありたいのか」といった内面的な動機を掘り下げていきます。そしてコミットメントでは、恐れがあっても「やると決める」力を育てていきます。これらのプロセスは、単に技術的なトレーニングだけでは育たない「内側からの強さ」を支えるのです。
興味深いことにACTは「逆説的」に作用する場面が多くあります。たとえば「ミスをしてはいけない」と強く思えば思うほど、身体は緊張し、動きが硬くなってしまいます。しかし「失敗してもいい」と思えた瞬間、不思議と心が軽くなり、身体も自然に動き出すのです。これはWegner(1994)によって提唱された「思考抑制の逆説的効果」とも関連しており、感情や思考を無理に押さえ込もうとすると、かえってパフォーマンスに悪影響を与えてしまうことが科学的にも示されています。
今、アスリートに求められているのは「ネガティブを排除する力」ではなく、「ネガティブと共に生きる力」です。ACTは、厳しい競技環境の中で人間らしさを損なうことなく、最大限のパフォーマンスを引き出すための強力なツールであるといえます。恐怖を消すのではなく、それを抱きながら、自分の価値に基づいて行動を選ぶ。その姿勢こそが、真に強くしなやかなアスリートを育てていくのです。