スポーツの分野において、著名なアスリートの子どもが同様に高いパフォーマンスを発揮するという現象は珍しいことではありません。もちろん、幼少期から優れた指導環境に恵まれていることも一因ですが、そこに「遺伝的要因」が介在している可能性については、スポーツ科学の世界でも注目されています。特に筋肉の質に関係する「ACTN3」という遺伝子の存在が、その中心的なトピックのひとつとして挙げられます。
ACTN3遺伝子は骨格筋内の調節タンパク質「α−アクチニン3(ACTN3)」をコードする遺伝子です。このタンパク質は速筋線維、すなわち瞬間的に大きな力を発揮する筋線維に多く存在し、爆発的な動作を要する短距離走やウエイトリフティングなどの種目において重要な役割を担っています。実際、ACTN3はZ帯という筋線維内の構造に局在しており、筋収縮の際にアクチンフィラメントを安定化させることで、力の伝達効率を高める機能があるとされています。
ところがこのACTN3遺伝子には「R577X」と呼ばれる代表的な変異が存在します。これは577番目のアミノ酸であるアルギニン(R)が終止コドン(X)に置き換わることで、ACTN3タンパク質の合成が途中で停止し、機能的なα−アクチニン3が作られなくなるという変異です。この変異をホモ接合体で有している場合(X/X型)、個体は生涯にわたりACTN3を一切合成することができません。
実に興味深いことにこのX/X型の遺伝子型を有する人は、全世界でおよそ10億人、つまりヒトの約20%に達すると報告されています。驚くべきは、このような「欠損状態」であっても、基本的な生活機能や健康には大きな支障が生じないという点です。これはACTN3の欠如が筋機能に対して致命的な影響を及ぼすわけではなく、むしろ代償的に働く別のタンパク質、たとえばα−アクチニン2などによってある程度補われるためだと考えられています。
一方でスポーツパフォーマンスにおいてはこの違いが顕著に現れることがあります。国際的な研究では短距離走やパワー系競技のトップアスリートにおいて、機能的ACTN3(R型)を保持している割合が、一般人よりも有意に高いことが報告されています(Yang.2003)。例えば、オーストラリアの陸上選手を対象に行われた研究では、100m走選手のうちACTN3を完全に欠損していた選手はほとんど存在しなかったのに対し、持久系競技の選手ではX/X型の割合が相対的に高かったというデータがあります。
これはACTN3が瞬発系の運動能力を支える一方で、持久系の運動においてはむしろエネルギー効率の面で若干不利に働く可能性があるためだと推測されています。動物モデルにおいてもACTN3を欠損したマウスは、最大筋力は低いものの持久運動のパフォーマンスは高まる傾向が観察されており、この現象は「遺伝子と競技特性の適合性」という観点から注目されています。
とはいえ、ACTN3がスポーツパフォーマンスを決定づける「唯一の要因」ではないこともまた事実です。多くのエリートアスリートには、ACTN3以外にも筋肥大を促進するMSTN、酸素運搬能に関わるEPORやHIF-1α、神経伝達に関わるBDNFなど、さまざまな遺伝子が複雑に関与しており、それらの相互作用の中で最終的なパフォーマンスが形成されます。
さらにどれほど優れた遺伝子を有していたとしても、適切なトレーニング環境、栄養、心理的なモチベーションといった外的要因が整っていなければ、それが最大限に発揮されることはありません。遺伝子はあくまで「設計図」にすぎず、それをどのように「建築」するかが重要なのです。スポーツの才能とは遺伝的素因と環境的要因の相互作用の中に花開くものであり、ACTN3遺伝子はその一例に過ぎません。今後もゲノム解析の進展によって、より精緻な「パフォーマンス遺伝学」が明らかにされていくことが期待されています。