クレンチングとは無意識的に上下の歯を強く噛みしめる行為を指します。これは日常生活の中で自覚なく生じることが多く、習慣化された場合にはブラキシズムと呼ばれ、顎関節症や歯周病などの原因となることが知られています。特に精神的緊張や身体的ストレス、集中状態、あるいは最大筋力を発揮するような場面において、クレンチングは頻繁に生じることが報告されています(Lavigne.2008)。
アスリートの競技動作においてもクレンチングは注目されており、特にウェイトリフティングやスプリントのような最大努力が求められる運動中に高頻度で確認されています。これは「咀嚼筋によるフィードフォワード的筋活動」による現象と考えられており、実際に咬筋や側頭筋が四肢の主動作筋に先駆けて活動を開始することが示唆されています。この現象は脳が過去の運動経験をもとに、特定の運動において「噛み締めること」が筋力発揮の一部であると誤って学習してしまった結果と考えられています。
またクレンチングは心理的ブロックの軽減にも関係しているとされています。いわゆる「力を出し切れない」状態にあるアスリートが、歯を食いしばることで過剰な自己抑制が解除され、より高いパフォーマンスを引き出せるとされているのです(Ebben.2008)。このような観点からクレンチングが一時的に有効であるとする見方もあります。しかし同時にこれが無意識的に固定化された運動パターンとなると、重大な弊害をもたらす可能性が高まります。
クレンチングにより咬合力が意識的な最大咬合力に匹敵、もしくはそれ以上となるケースも報告されており、このときに生じる顎関節への過負荷は、関節円板の損傷や顎関節症の進行さらには慢性的な咀嚼筋の緊張を招く要因となります。さらに咀嚼筋の過活動は胸鎖乳突筋や僧帽筋といった頚部周辺筋に波及し、全身的な筋緊張の上昇を引き起こします。このような筋緊張の連鎖は姿勢制御や呼吸、循環系にまで悪影響を及ぼすことがあり、パフォーマンスの安定性を損なう原因ともなり得ます。
一方でクレンチングを行ってもパフォーマンス向上がみられない個体も存在することがわかっています。これは「クレンチングの有無による筋出力の変化に個人差がある」ことを示しており、すべてのアスリートにとってクレンチングが有益であるとは限らないことを意味します。実際にクレンチングを伴わない筋力発揮であっても同程度の出力を得られる場合があることから、咀嚼筋の過剰介入を抑制し、より効率的な動作パターンを獲得することの方が長期的には望ましいと考えられます。
このような背景からクレンチングに対する改善アプローチには、多角的な視点が必要となります。マウスピースによる物理的制御や、心理的ストレスコーピングの習得、筋緊張や動作パターンの再教育などが有効な手段とされており、運動学・心理学・神経生理学の統合的なアプローチが求められます。さらにどのような動作でクレンチングが誘発され、なぜその動作でそれが起こるのかを詳細に分析することも重要です。トリガーとなっている運動パターンや心理的状況、あるいは姿勢・呼吸との関連を探ることにより、根本的な改善が期待できるのです。
最終的には無意識にプログラムされたこの「食いしばりの癖」を運動の中から解放し、より自由度が高く、無駄のない動作パターンを再獲得していくことがアスリートにとっての理想と言えるでしょう。強くなるために必要な「力み」ではなく、力みのない強さこそが長期的なパフォーマンスの向上と持続に寄与するのです。